© 2012「わが母の記」製作委員会

文豪・井上靖の自伝的小説を映画化し、2011年の第35回モントリオール世界映画祭にて審査員特別グランプリを受賞した作品。出演は演技派俳優の役所広司、樹木希林、宮�ｱあおい、南果歩、キムラ緑子、三國連太郎ほか。監督・脚本は’08年の映画『クライマーズ・ハイ』の原田眞人。年老いて記憶や意識が混濁していく老齢の母親と、息子や娘、孫や周囲の人との関わり、込められた思いを10年にわたって描く。家族だからこそのわだかまりや結びつきをとらえた、穏やかな余韻のあるヒューマンドラマである。

昭和39年。誰もが認めるベストセラー作家である伊上洪作は、妻や3人の娘たちと穏やかに暮らしながらも、「自分だけが家族から捨てられた」という幼い頃の思いを引きずっている。幼少期にひとりで曾祖父の妾・おぬいに預けられ、両親や2人の妹たちとは離れて育ったからだ。そして年老いた父が他界したことから、もの忘れが始まった実母・八重のことを2人の妹たちとともに洪作も世話することに。洪作は八重の予測できない言動にとまどいながらも、妻と3人の娘、2人の妹や周囲の人たちに支えられ、母との関係に向き合うことになる。

互いに思いやりながらも噛み合わない母と息子、老いてゆく肉親との関わりなど、普遍的な家族の物語にしみじみとさせられる本作。老齢の母と中年の息子との関係に加え、自立心旺盛な三女を中心とした昭和30〜40年代当時の若い世代の恋や生き方にも触れて。親の老いを実感する大人世代に訴えかけるテーマでありつつ、若い世代にも観やすいように工夫がなされている。

社会的な地位のある作家でありながら、プライベートでは老齢の母や反抗期の娘との関係にうろたえる洪作役は、役所が丁寧に表現。母の息子としては素直になれず、年頃の娘たちの父親としてはまごつくなど、それぞれの立場の感覚や喜怒哀楽の感情をよく伝えている。認知症が進行してゆく母の八重役は、樹木希林が味わい深く。徘徊したり暴れたりしながらも、ぽろっと意外な言葉をこぼすところなど、彼女自身がもつ絶妙な持ち味がよく生かされている。ワンマンな父・洪作に歯向かう三女の琴子役を宮�ｱあおいがイキイキと、長女の郁子役はミムラが素直に、洪作の2人の妹は南果歩とキムラ緑子がはっきりとしたキャラクターで、洪作の父役は三國連太郎が大きな存在感で、伊上家の運転手役は三浦貴大が純朴な風情で、それぞれに演じている。

原作は井上靖が1975年に発表した自叙伝的小説『わが母の記〜花の下・月の光・雪の面〜』。’64年、井上氏が57歳の時に第1部である『花の下にて』、’69年に第2部の『月の光』、’74年に第3部『雪の面』を発表し、’75年に三部作をまとめて単行本として出版されたとのこと。井上靖は’50年に『闘牛』で第22回芥川賞を受賞するなど受賞歴多数。『氷壁』や『風林火山』などドラマ化や映画化がたびたびなされている有名な作品も多く、’76年には文化勲章を授与され、文化功労者に選出され、’91年に83歳で死去。昭和を代表する作家のひとりである。

撮影は、井上靖が実際に家族とともに過ごした東京都世田谷区の自宅にて（撮影終了後、北海道の旭川へ移築）。劇中には井上氏が実際に使っていた書斎も登場する。また故郷である伊豆の湯ヶ島、別荘のあった軽井沢などで撮影。海からのぞむ富士山や、鮮やかな緑が広がるわさび田など、四季折々の日本の風光をとらえていることも見どころのひとつだ。

原田監督は’79年に映画『さらば映画の友よ インディアンサマー』で監督デビュー。アメリカとヨーロッパで映画製作を学び、’84年に帰国。’03年の映画『ラストサムライ』に出演、’05年の映画『ビートキッズ』の脚本を執筆するなど、脚本家や俳優としても活動している。本作については、「井上靖先生とお母様の関係がすばらしいと思いました。憎んでいたけど、一方で愛をもっていた。その憎しみと愛の深さがこの作品を生み出した。素晴らしい表現者・芸術家は、母親が作り出している。母親との関係がすべての創造の根源だと思います。母の力、母の魅力、その源に触れたかった、それが今回の映画です。考えてみると僕自身も映画にひかれはじめたのは母親との関係からでした。観客の皆さんもこの映画からご自身のご家族、母親、その子供たちとの関係を考えてもらえたらと思います」と語っている。

高齢化が進む現代で、親や祖父母世代とどのように向き合い、関わっていくかは大切なテーマのひとつ。現実は映画のようにドラマティックでも2時間で終わるものでもないが、共感できることや何かのきっかけとなることがあるかもしれない。本作の撮影は2011年の3月10日、東日本大震災の前日に終えたとのこと。監督は語る。「私はクランクアップの翌日から都内のスタジオで編集作業に入り、その時に地震にあいました。それから日々テレビでニュースを見ながら、涙を流していました。その想いが、この映画にもこもっていると思います。この映画がどれだけ悲しみにあった人に癒しをもたらすことができるかはわかりませんが、未曽有の大災害から立ち上がる中で必要なのは、家族の絆だと思います」。時には反発し合い時には受け入れ合い、いろいろな時期を経て深められてゆく家族の結びつき。その経緯を淡々と映し出す、良作である。