落下の解剖学

男が死に、唯一の証人は視覚障害のある11歳の息子
男の妻であるドイツ人作家が容疑をかけられ……
法廷ものであり、家族の関係性を問う人間ドラマ

  • 2024/02/05
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落下の解剖学©2023 L.F.P. - Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

雪深い山の家で起きた死亡事件の行方を描き、第76回カンヌ国際映画祭にてパルムドール(最高賞)を受賞した注目作。出演は、『レクイエム〜ミカエラの肖像』でベルリン国際映画祭銀熊賞、『ありがとう、トニ・エルドマン』でヨーロッパ映画賞女優賞を受賞したドイツ出身のザンドラ・ヒュラー、『グレース・オブ・ゴッド告発の時』のスワン・アルロー、『ヒューマニティ通り8番地』のミロ・マシャド・グラネールほか。監督・脚本は『ヴィクトリア』のジュスティーヌ・トリエが手がける。雪山の山荘で、男が転落死した。男の妻に殺人容疑がかかり、唯一の証人は視覚障害のある11歳の息子だった……。捜査した事実、周囲の証言により裁判が進むなか、関係者それぞれの目から見た事実が語られてゆく。男の死は事故か、自死か、殺人なのか。事件の真相を追ってゆく法廷ドラマであり、家族の関係性についてシビアに映し、固定観念への疑問を投げかけるシリアスな物語である。

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。男の妻であるドイツ人のベストセラー作家サンドラに殺人容疑がかかる。唯一の証人は視覚障害のある11歳の息子ダニエルだった。事件が発覚したのは、ダニエルが愛犬スヌープの散歩から戻った時のこと。交通事故が原因で視覚に障害のあるダニエルがかすかな視界のなかで、雪の積もる地面に頭から血を流し横たわる父親サミュエルに気づき、ダニエルの叫び声を聞いた母親サンドラが駆けつけると、既に男の息は止まっていた。検視の結果、死因は事故または第三者の殴打による頭部の外傷だと判明。事故か自殺か他殺か──殺人ならば、状況から容疑者はサンドラしかいない。サンドラはかつて交流があった弁護士のヴァンサンに連絡を取り、すべては自分が昼寝をしていた間の出来事だと説明するが……。

サミュエル・タイス,ザンドラ・ヒュラー

カンヌ国際映画祭のパルムドールをはじめ、数々の映画賞を受賞しているフランス映画。男の死亡事件を捜査するなか裁判となり、明らかになってゆく事実のなかで疑念が広がる家族関係を追っていく。法廷ものであり家族のドラマであり、父を亡くし母が容疑者となった子どもの苦悶、夫婦間の軋轢をリアルに描いている。トリエ監督は刑事事件専門の弁護士による指導を受けながら脚本を練り上げていくなかで、アメリカの法廷ものとは異なる内容になっていったと語る。「フランスの裁判はあまり秩序立っておらず、米国で見られるような組織的なアプローチとはかなり異なっています。でもだからこそ、見せ場重視のアメリカの法廷ドラマとは違うアプローチで、フランス特有の映画にすることができました」
 そしてトリエ監督は劇中で男の死について捜査するなか、法廷で妻と夫妻の息子が証言するさまをしっかりとみせていく内容について、このように語っている。「基本的に法廷では、自分の歴史が自分のものではなくなる。他人によってあちこちに散らばった不確かな要素を組み合わせて審査する。つまり歴史が虚構になってしまう。私はそんな点に興味を引かれました」

夫が死んだ事件の嫌疑をかけられるサンドラ役はザンドラ・ヒュラーが、息子を愛する母親であり人気の作家として。そもそもこの役はトリエ監督がザンドラにアテガキをしたそうで、ザンドラがこの映画にもたらしたことについて、監督は感謝と共にこのように語っている。「主人公は、リベラルな思想の女性。そのセクシュアリティや、キャリア、母親としてのあり方ゆえに他人から白い目で見られている。私は、ザンドラなら単なる“メッセージ”のレベルに留まらず、この役柄に複雑さと深みをもたらしてくれると思っていたけれど、撮影を開始してすぐに、ザンドラの信念と独創性に圧倒されました。彼女には内側から滲み出る現実味があって、それがセリフのひとつひとつにあふれていた。私の脚本に疑問を投げかけ、何シーンか書き直すように働きかけてくれることもあった。彼女には、手に取るように感じられる存在感があり、彼女の役に対する解釈は、本作に忘れ難い印象を残してくれた。撮影が終了する前に確信したの。彼女が自分の一部をこの作品に捧げてくれたから、唯一無二の演技を撮ることができたのだとね」
 視覚障害のあるサンドラの息子ダニエル役はミロ・マシャド・グラネールが、事件の唯一の証人として、サンドラの旧友の弁護士ヴァンサン役はスワン・アルローが、転落死したサンドラの夫サミュエル役はサミュエル・タイスが、裁判の検事役はアントワーヌ・レナルツが、それぞれに演じている。
 この映画ではドイツ人のサンドラが、フランス人の夫とフランス語をメインに話す息子にフランス語や英語で話し、フランスの法廷で証言する時はフランス語で詳しく話すことに苦労する、というさまも描かれている。「Madame Figaro」の2024年1月4日のインタビュー「Sandra Hüller : ≪Le scénario d'Anatomie d'une chute constituait beaucoup de défis pour moi≫(ザンドラ・ヒュラー: 『落下の解剖学』のシナリオは私にとって多くの課題をもたらしました)」にてザンドラは、「サンドラのキャラクターを知るために、私は週に2回、何か月間もフランス語のレッスンを受けました」とコメント。トリエ監督は複数の言語を取り入れたことについてこのように説明している。「フランス語、英語、ドイツ語と複数の言語を使用することで、サンドラのキャラクターに複雑性を加え、不透明感を醸し出しています。サンドラは、外国人としてフランスで裁判にかけられ、夫と息子が話す言語も操らなければならない。それが、観客とサンドラの間にある特定の距離感も作り出している。サンドラは、いくつもの層を織りなす複雑なキャラクターで、それが裁判を通して浮き彫りになる。私は、話す言語が違う夫婦の生活を描き出したいと思った。第3の言語が中間地点になることで、2人のやり取りはより明確になっていきます」

ザンドラ・ヒュラー、ほか

この作品制作のきっかけについてトリエ監督は語る。「ある夫婦の関係が崩壊していく様を表現したいと思ったのが始まり。夫婦の身体的、精神的転落を緻密に描くことによって、2人の愛の衰えが浮き彫りになっていくという発想から出発しました」
 そして「脚本と撮影技術に対してドキュメンタリー的なアプローチを取ることで、写実的表現を目指した(トリエ監督)」ことにより、当事者間のリアルな感情が伝わる内容となっている。特に後半の夫婦の言い合いのシーンでは、家事と子育ての負担の割合のこと、仕事に対する考え方など、うんざりするほどリアルで目をそむけたくなる諍いが生々しい。トリエ監督はこの作品のテーマそのものが問題と投げかけているとも。「子どもをもつ夫婦の争いを物語の中心に置くことで、時間を共有することの複雑さを探究しています。こういうテーマが映画で扱われることはあまりないけれど、ギブアンドテイクの関係、信頼、パートナーシップの関係性といった重要な問題を提起していると思う」
 ザンドラは「TF1 Info」の2024年1月24日のインタビュー「Sandra Hüller dans "La Zone d'intérêt" : "J'éprouve une haine profonde pour mon personnage"(ザンドラ・ヒュラー『ゾーン・オブ・インタレスト』:自分のキャラクターに深い憎しみを感じている)」にて、『落下の解剖学』の成功について「映画が人々に届くのに国籍は関係ないことを示している。それは魔法のようなものです」とコメントし、この映画の受けとめられ方についてこのように語っている。「男性でも女性でも老若男女問わず、誰もがこの物語に共感することができます。この映画とそのヒロインについては人それぞれに異なる見方があり、誰もがそれについて議論します。最も保守的な国では、人々が彼女の母親のタイプについて非常に批判的であることに気づきました。より進歩的な国では、カップル内の力のバランスがより重視されます」

ミロ・マシャド・グラネール,ほか

この映画は、第76回カンヌ国際映画祭にてパルムドール受賞を、第81回ゴールデン・グローブ賞にて脚本賞と非英語作品賞を受賞。そして2024年3月に授賞式が行われる第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、編集賞の5部門にノミネートされている。個人的には、前述の夫婦で激しい言い合いをするシーンでは男女(妻と夫)の言い分が逆転しているような感覚があった。劇中のサミュエルの言い分はこれまでに多くの妻が考え訴えてきたような内容であり、サンドラの言い分は夫が妻に言い放つような内容であることがユニークだなと。また後半で息子ダニエルが母サンドラを抱きしめるシーンは、マリアがキリストを抱き慈悲を象徴する“ピエタ”の逆パターンのようにも。これまでの主流の感覚とは異なった表現することで、観る側の概念により強く響かせているのかもしれないと考えられる。最後に、この作品が問いかけるテーマや夫婦のあり方について、トリエ監督が語ったメッセージをお伝えする。「本作が観客に呼びかけるのは、人間関係における平等に対して抱かれがちな固定観念への疑問。そしてその平等が、独断的な欲求や対抗意識によって、いとも簡単に崩れてしまうものなのだということです。この夫婦は、葛藤しながらも自らの理想にしがみつき、理想ではない状況に決して甘んじない。その姿勢は称賛に値すると思う。2人は口論を通して互いと交渉し、そのなかでもお互いに対して正直であり続ける。それは、困難に直面しながらも、お互いを深く愛しているということを象徴しています」

作品データ

公開 2024年2月23日よりTOHOシネマズ シャンテほかにて全国順次公開
制作年/制作国 2023年 フランス
上映時間 2:32
配給 ギャガ
原題 Anatomie d'une chute
監督・脚本 ジュスティーヌ・トリエ
脚本 アルチュール・アラリ
出演 ザンドラ・ヒュラー
スワン・アルロー
ミロ・マシャド・グラネール
アントワーヌ・レナルツ
:あつた美希
ライター:あつた美希/Miki Atsuta フリーライター、アロマコーディネーター、クレイセラピスト インストラクター/インタビュー記事、映画コメント、カルチャー全般のレビューなどを執筆。1996年から女性誌を中心に活動し、これまでに取材した人数は600人以上。近年は2015〜2018年に『25ans』にてカルチャーページを、2015〜2019年にフレグランスジャーナル社『アロマトピア』にて“シネマ・アロマ”を、2016〜2018年にプレジデント社『プレジデントウーマン』にてカルチャーページ「大人のスキマ時間」を連載。2018年よりハースト婦人画報社の季刊誌『リシェス』の“LIFESTYLE - NEWS”にてカルチャーを連載中。
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