TAR/ター

権威ある音楽家の業と闇の行き着く先とは
妄想や幻想が入り混じり、張りつめた人間模様を描く
ケイト・ブランシェット主演のサイコスリラー

  • 2023/05/17
  • イベント
  • シネマ
TAR/ター©2022 FOCUS FEATURES LLC.

権威ある指揮者の業と闇を描くサイコスリラー。出演は『ブルー・ジャスミン』のケイト・ブランシェット、『燃ゆる女の肖像』のノエミ・メルラン、『Yella(原題)』でベルリン国際映画祭銀熊賞(女優賞)を受賞したニーナ・ホス、本作が俳優デビューとなるチェロ奏者ソフィー・カウアー、『キングスマン』のマーク・ストロングほか。脚本・製作・監督は『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』のトッド・フィールドが手がける。ドイツのベルリン・フィルで女性として初めて首席指揮者に任命されたリディア・ターは、音楽家としての地位を実力で築いてきた。しかしある嫌疑がかけられ……。指揮者と周囲の人々、アシスタントや副指揮者やオーケストラのメンバー、私生活のパートナーや養女である小さな娘、さまざまな関係で緊張感みなぎる人間模様を描いてゆく。物語が進むにつれ、主人公の目線に妄想や幻想が入り混じり、観客をダークな世界へと巻き込んでいく。権力の業と闇に囚われた音楽家の行きつく先とは。じりじりと追い詰められていく主人公の姿を生々しく映しだす物語である。

リディア・ターはアメリカの5大オーケストラで指揮者を務め、世界最高峰のオーケストラのひとつであるドイツのベルリン・フィルの首席指揮者に就任。師バーンスタインと同じくマーラーを愛し、ベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない交響曲第5番を、来月にライブ録音して発売する予定だ。そうした挑戦による重圧と新曲の創作に苦しむなか、かつてターが指導した若手指揮者の訃報が入る。そしてターはある疑惑をかけられ……。

ケイト・ブランシェット,ほか

権威ある指揮者となった音楽家の業と闇、精神的な重圧の行方をシリアスに描く物語。フィールド監督の16年ぶりの3作目であり、演技派のケイト・ブランシェットにあて書きをしたことでも注目されている。脚本の監修を著作『指揮者は何を考えているか』でも知られる指揮者ジョン・マウチェリが務め、フィールド監督のために彼が講義を行ったとも。監督はマウチェリへの感謝の思いをこのように語っている。「ジョンは快く知識と時間を授けてくれた。ジョンの情熱は、間違いなく彼の師であるレナード・バーンスタインから受け継いだものだね」

一流の指揮者リディア・ター役はケイトが、業や恐れに囚われて迷走していくさまをダークに表現。同時進行でほかの2作品にも参加していたというなか、ケイトがいかにこの役作りに没頭したかについてフィールド監督は敬意を込めて語る。「昼間に別の撮影があっても、夜になると僕に電話してきて、そこからさらに何時間も準備に費やすんだ。ドイツ語とピアノも習得して、演奏シーンはすべてケイト自身が演じている。リサーチに至るまで本当に抜かりないし、彼女はまさに独学の達人だね。制作期間中はろくに睡眠もとらなかった。1日の撮影が終わると、ピアノに直行するか、ドイツ語とアメリカ英語の指導を受けに行くか、指揮棒の振り方を教わりに行っていた。撮影がない日には、アレクサンダー広場にある環状交差点と全く同じ寸法の競馬場に行ってリハーサルを行い、スタントマンが運転する8台の車に囲まれながら、時速100キロで滑走した。皆が目指すべき水準を示してくれて、僕たちは彼女についていくのに必死だったよ」
 またケイトは役作りのために、劇中でエルガーのチェロ協奏曲の演奏の吹き替えをしたロンドン交響楽団の指揮者ナタリー・マレー・ビールから指導を受けたとのこと。さまざまな指揮者の映像や資料などを参考にしたとケイトは語る。「まずは、イリヤ・ムーシンの音楽セミナーと、アントニア・ブリコについての熱いドキュメンタリーを参考にした。ターが目指していた指揮者像としては、クラウディオ・アバド、カルロス・クライバー、エマニュエル・アイム、ベルナルト・ハイティンクの映像を観たわ」
 ターのオーケストラのコンサートマスターで、ターと一緒に養女を育てている恋人シャロン役はニーナ・ホスが、ターを尊敬し恐れてもいる、副指揮者を目指すアシスタントのフランチェスカ役はノエミ・メルランが、ターの財団を支援する投資銀行家のエリオット役はマーク・ストロングが、それぞれに演じている。また制作に参加しているドレスデン・フィルのコンサートマスター、ヴォルフガング・ヘントリッヒは、ニーナ・ホスにコンサートマスターについて教授し、劇中では彼女と同じ机で仕事をする人物として出演もしている。
 目を引くのは、ターを魅了し翻弄する若手のロシア人チェロ奏者オリガを演じたソフィー・カウアーだ。オリガ役について監督は「オリガ役を探すのが一番の試練になることはわかっていた。ロッテ・レーニャとジャクリーヌ・デュ・プレを合わせたような人が理想だった」と語り、なかなか決まらずに苦戦したとも。そしてオーディションで多数の演奏家と俳優が参加するなか、実際にチェロ奏者で演技未経験である当時19歳だった彼女を抜擢。監督はソフィーをこのように称賛する。「演奏も本当にうまく、並外れた才能をもつチェロ奏者だった。ソフィーは、まさに本作の『力』ともいえる存在だ」

ニーナ・ホス,ケイト・ブランシェット

フィールド監督の音楽のルーツはジャズであり、レナード・バーンスタインをきっかけにクラシック音楽の世界を知ったとのこと。本作で脚本の監修を務めた指揮者ジョン・マウチェリはバーンスタインと親交があり、ハリウッド・ボールで毎年開催されている「Movie Nights」の指揮者を数年間務めた経験があったことから、この映画の構造に理解があったとも。監督はマウチェリの監修について、「彼は映画の構造も熟知しているから、話がとても早かった。脚本のアイデアを共有して、クラシック音楽を扱ったストーリーとして問題がないかを見てもらうこともあった」とコメント。そしてこの映画でマーラーの交響曲第5番第4楽章を取り上げた理由について、このように語っている。「ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』に使われたことで、大衆的な曲だと見做されるようになった。だから、ジョン(マウチェリ)に好きなクラシック音楽の作品を聞かれた時、恐る恐る恥ずかしそうに、マーラーの交響曲第5番第4楽章だと言った。するとジョンは、『本当にクラシック音楽を分かっている人なら、第4楽章に対して皮肉を言ったりしない。『ベニスに死す』で使われていたから何だ。マーラーの交響曲第5番を基にストーリーを作ればいい』と怒った。だから、僕はその通りにした」
 また監督は自身が本当に好きだと思う音楽を追求する考えから、エルガーのチェロ協奏曲も映画に採用したとも。さらに監督の希望でジャズのスタンダードを2曲、劇中でシャロンの動悸が激しくなった時にターがかける、カウント・ベイシー・オーケストラのためにニール・ヘフティがアレンジした「Li’l Darlin’」、ターとシャロンが家で過ごす場面で流れるおだやかな曲「Here’s That Rainy Day」が取りあげられている。

サウンドトラックは『ジョーカー』でアカデミー賞を受賞したアイスランドの作曲家ヒルドゥル・グーナドッティルが担当し、クラシックに加えてジャズや民族音楽も採用。映画の冒頭では、シャーマンであるエリサ・ヴァルガス・フェルナンデスによるイカロ(治療歌)が流れる。また映画の撮影後には、“ターのアルバム”としてコンセプトアルバムを制作。ドイツ・グラモフォンで、マーラーの交響曲第5番のリハーサルを行うブランシェットと、ロンドン・コンテンポラリー管弦楽団の指揮者ロバート・エイムスに指示を出すグドナドッティル、ロンドン交響楽団で指揮を務めるナタリー・マレー・ビールの3人の監修による演奏を収録。ロンドン交響楽団とオリガ役の若手チェロ奏者ソフィー・カウアーによるエルガーのチェロ協奏曲の収録も。ブランシェットはこの曲のレコーディングについてこのようにコメントしている。「ソフィーにとっては夢のような体験だったと思う。1965年にデュ・プレが録音を行なったのと同じオーケストラと、同じスタジオで演奏することができたのだから」
 アルバムの1曲目「ペトラのために」は、ターが作曲したという設定でグドナドッティルが演奏。最後の曲は1990年にターがアマゾンで録音した曲として、前述のエリサが歌うイカロ「クーラ・メンテ」となっている(実際にはサウンド・デザイナーのスティーヴン・グリフィスが、ロンドン大学東洋アフリカ学院出身の若手音楽民族学者である、自身の甥ザキエル・ルイス=グリフィスを派遣し、ウカヤリ川で歌うエリサのイカロを録音)。このアルバムを制作した喜びをフィールド監督は語る。「作品の延長線上に、このアルバムを作れたのが本当にうれしい。実際にこの世界に存在しているということが、さらにうれしい」
 撮影はドイツのザクセン州にあるドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地クルトゥーアパラスト(文化宮殿)にて行われた。

ソフィー・カウアー,ケイト・ブランシェット,ほか

権威ある指揮者リディア・ターが業や恐れに囚われて迷走していくさまを表現する本作。芸術家の業と性(さが)により我を失い、それでも最後に彼女に残るのはやはり芸術家の業と性であり、皮肉なことにそれだけが彼女を生かす。そして意外なラストシーンに、観る者は何を思うだろうか。筆者は孤独や虚無を感じたものの、どう感じるかはそれぞれの受けとめ方次第だ。またこの映画の設定や物語の内容について、アメリカの指揮者マリン・オールソップ氏が批判し、ケイトがその批判に対してコメントをしたことが話題となっている。映画の設定や内容について少しもやもやしたものを個人的に感じたなか、これらの記事のオールソップ氏の主張によってやや解消されるような感覚もあったのでご紹介する。イギリスの大手新聞「Evening Standard」の2023年1月12日の記事「Cate Blanchett responds to criticism that new film Tar is ‘antiwoman’(ケイト・ブランシェット、新作『ター』は「反女性」だという批判に反論)」は、オールソップ氏とケイト双方のコメントを掲載した。オールソップ氏はサンデー・タイムズ紙のインタビューにて、自身がオーケストラの音楽家と結婚したレズビアンであり、名門音楽大学で講義を行っているなど、「ターの表面的な側面の多くが私自身の私生活と一致しているように思えた」こと、「そのような役割(指揮者)の女性を描くにあたり、彼女を虐待者としたことは私にとって悲痛なことでした」と話したことを紹介。その後、ケイトはBBCラジオ4のトゥデイ番組で、登場人物は完全にフィクションであり、権力の腐敗した性質についての思索であるとして、「これは非常に挑発的な映画であり、人々に多くの非常に強い反応を引き起こすでしょう。トッド(監督)と私がやりたかったのは、活発な会話を生み出すことでした。芸術作品に対して正しい反応も間違った反応もありません」とコメントした。また2023年1月11日の「Los Angeles Times」の記事「This real-life conductor is mentioned in ‘Tar.’ And she’s not a fan of the film(この実在の指揮者は『TAR/ター』のなかで言及されています。そして彼女はその映画のファンではありません)」では、オールソップ氏は、女性指揮者への評価の不足は現在もあるなか、それでも女性が障害なく指揮の世界を生きていくことは決してできないことではないとして、「女性指揮者のための機会が常に創出される必要がある」とコメント。そしてこれから指揮者の世界でも女性たちは力を合わせていくことができると呼びかけた。「私たちがいま成し遂げている進歩が、後戻りできないほど実質的かつ定量的なものであることを期待しています。なぜなら、それを逆転させたいと考えている人たちがいると思うからです。私は現実主義者でもあり楽観主義者でもあるので、腕を組んで歩き続けましょう、と言うのです」

参考:「Evening Standard」、「Los Angeles Times

作品データ

公開 2023年5月12日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにて全国ロードショー
制作年/制作国 2022年 アメリカ
上映時間 2:38
配給 ギャガ
原題 TÀR
監督・脚本・製作 トッド・フィールド
音楽 ヒドゥル・グドナドッティル
出演 ケイト・ブランシェット
ニーナ・ホス
マーク・ストロング
ジュリアン・グローヴァー
:あつた美希
ライター:あつた美希/Miki Atsuta フリーライター、アロマコーディネーター、クレイセラピスト インストラクター/インタビュー記事、映画コメント、カルチャー全般のレビューなどを執筆。1996年から女性誌を中心に活動し、これまでに取材した人数は600人以上。近年は2015〜2018年に『25ans』にてカルチャーページを、2015〜2019年にフレグランスジャーナル社『アロマトピア』にて“シネマ・アロマ”を、2016〜2018年にプレジデント社『プレジデントウーマン』にてカルチャーページ「大人のスキマ時間」を連載。2018年よりハースト婦人画報社の季刊誌『リシェス』の“LIFESTYLE - NEWS”にてカルチャーを連載中。
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