不思議の国の数学者

数学が苦手な韓国人の少年と脱北者の天才数学者
孤独な2人が学びを通して苦難を乗り越えていく
観る者にあたたかなエールを送る人間ドラマ

  • 2023/03/30
  • イベント
  • シネマ
不思議の国の数学者© 2022 SHOWBOX AND JOYRABBIT INC. ALL RIGHTS RESERVED.

脱北者である天才数学者と数学が苦手な韓国人の少年の交流を描く人間ドラマ。出演は、『オールド・ボーイ』『新しき世界』のチェ・ミンシク、今回が長編映画デビューであるドラマ「秘密の森シーズン2」のキム・ドンフィ、『ザ・メイヤー特別市民』のパク・ビョンウン、『沈黙、愛』のパク・へジュン、ドラマ「mine」のチョ・ユンソほか。監督は本作が初めての長編映画であり、『Enlightenment Film』で第54回アジア太平洋映画祭脚本賞を受賞したパク・ドンフンが手がける。数学が苦手な高校生ジウは、高校の夜間警備員が数学に長けていると知り、教えてほしいと懇願するが……。数学の成績が悪いことで転校まで追いつめられている奨学生の少年、悲しい過去に囚われて人を寄せつけずにいる数学者、孤独な2人が数学を通じて交流することでそれぞれに苦難や挫折を乗り越えていく。観る者にそっとエールを送るようなあたたかな感動を届ける良作である。

キム・ドンフィ

母子家庭の高校生ジウは奨学生として、韓国内で上位1%の英才が集まる名門私立高校に入学。しかし数学の成績が悪いために担任から転校をすすめられてしまう。母を悲しませたくない思いから何とか数学の成績をあげたいと悩むなか、ジウは学校で夜間警備員をしている脱北者が数学に長けていることを知り、教えてほしいと懇願する。難解な数学の問いをすらすらと解く警備員は、実は学問と思想の自由を求めて脱北してきた天才数学者イ・ハクソンだった。ハクソンはただ正解を出すだけではなく、問題を解く「過程」の大切さをジウに教えるなかで、予期せぬ人生の転換点を迎え……。

脱北者である天才数学者と数学が苦手な韓国人の高校生が出会い、交流と学びのなかでそれぞれの苦難や挫折を乗り越えていくさまをさわやかに描く。受験のための内申を重要視する韓国の進学校の教育、裕福な生徒たちのなかで貧しい母子家庭の奨学生が差別されること、思想と学問の自由を求めて韓国にやってきた脱北者が差別されること、といった現在の韓国における問題についても描いている。リアリティでいえば、一流の学者が北朝鮮から容易に亡命することはできない、もし脱北したとすれば韓国で手厚い待遇が受けられるのでは、という視点があるのはわかる。ただ先にあげたテーマを子どもたちにもわかりやすく描くフィクションとして、良心的な内容であるといえる。ドンフン監督はこの物語の意図についてこのように語っている。「『不思議の国の数学者』を構想しながら、目標を達成できなかった子どもたちを責めるのではなく、あたたかく励ますような親の姿を思い浮かべました」

チェ・ミンシク,パク・へジュン

脱北者である天才数学者イ・ハクソン役はチェ・ミンシクが不愛想で気難しい存在として。ミンシクは今回の役で『シュリ』以来、22年ぶりに北朝鮮の方言で演技をするために、実際に脱北者に会って発音や話し方のアドバイスを受けたとも。またこの物語への思いをミンシクはこのように語っている。「人生の根本に問いかける映画だ。正しい生き方、価値のある人生に対する問いがシナリオに込められている」
 ハクソンから数学を学ぶハン・ジウ役はキム・ドンフィが、父のような年齢の男性から数学を学び交流することで自然と成長し、精神的な強さを得て挫折を乗り越えていく少年として。成績第一主義のハン・ジウの担任グノ役はパク・ビョンウンが、ハクソンの唯一の友人ギチョル役はパク・へジュンが、ハン・ジウを気にかける友人ボラム役をチョ・ユンソが、それぞれに演じている。
 劇中でジウが問題の間違いを指摘するシーンの数学の問題は、実際に2009年度の修能模擬試験に出題され、その後に間違いが認められた問題とのこと。そして劇中でジウが3時間かけて解く問題なども本物の問いであると韓国のメディア「interview365」が2022年3月21日の記事「'이상한 나라의 수학자' 촬영지는 '수학의 정석' 저자가 설립한 학교?(「奇妙な国の数学者」撮影地は「数学の定石」著者が設立した学校?)」にて伝えている。こうした内容は本作の脚本を執筆したイ・ヨンジェが経済学部卒で、以前に経済部記者や証券会社のファンドマネージャーをしていた経験をもとに、リーマン予想やピタゴラス定理など数学の専門知識を生かして創作。そしてシナリオの監修は物理学の教授が手がけ、撮影現場は専門家の指導のもとで進められ、ヨンジュは出演者が内容を理解しやすくなるようにサポートしたそうだ。
 また映画の舞台となった名門私立高校は、韓国で有名な数学書『수학의 정석(直訳:数学の定石、英題:Standard Techniques of Mathematics: Basic)』の著者ホン・ソンデ氏が設立した上山高校で撮影された、と「interview365」の同記事にて伝えている。

劇中では音楽が効果的に用いられている。なかでもイ・ハクソンの部屋で流れるバッハの無伴奏チェロ組曲と、円周率である「π(パイ)」に音をつけて作られた曲「πソング」のピアノ演奏が印象的だ。ボラム役のチョ・ユンソは撮影のためにピアノの練習を毎日6〜7時間したという。ドンフン監督は「πソング」とバッハの無伴奏チェロ組曲がこの映画に登場することについて、韓国のメディア「cine21」の2022年3月17日の記事「'이상한 나라의 수학자' 박동훈 감독 인터뷰(『不思議の国の数学者』パク・ドンフン監督インタビュー)」にてこのように語った。「音楽も数学がなければ存在できません。このことを直感的でスタイリッシュにデザインするためにピアノを演奏するシーンを作りました。『πソング』はYouTubeにもありますが、『不思議の国の数学者』の『πソング』は楽しく聴きやすくするために新たなリズムと呼吸で作りました。<中略>バッハのチェロ曲もシナリオ段階からあったものです。バッハ以前に使用されたピタゴラスの音階は、オクターブをうつるほど同一音が維持されずに誤差が生じます。バッハの『平均律クラヴィーア』は、1オクターブで均一に割った音階を書くことを可能にする。バッハ自身が数学者の面をもっていたのです。それでシナリオにバッハの曲が登場する理由がわかりました」
 またサウンドトラックは、コールドプレイの「Life In Technicolor ii/天然色の人生」やBTSの「Euphoria」といった具体的な楽曲から、『めぐりあう時間たち』や『ソーシャル・ネットワーク』など映画のサウンドトラックから着想を得たとのことで、モダンでポジティブな楽曲が楽しめる。このサウンドトラックは英題『IN OUR PRIME』としてYouTubeで聴けるようになっている。
 劇中では、人々が行き交う街なかで回転する車輪などさまざまな映像を数式で表現するシーンがポップでかわいらしい。数学は難しく人を拒むものではなく、日常のどこにでもあり誰もが親しんでいるものなのだというメッセージがわかる。ハクソンがジウにオイラーの公式の素晴らしさを説明する時に、数式が金色に光るシーンもわかりやすく、アニメの表現のようにわかりやすく感情に訴えかけてくる。

チョ・ユンソ,キム・ドンフィ,チェ・ミンシク

正解を回答することだけが重要なのではなく、それ以上にその過程が大切である、と伝える本作。劇中では、アメリカの有名な数学者ジョン・フォン・ノイマンの名言をもとにしたという、「数学は単純だ。信じろ。今に分かる。人生のほうがよほど複雑だから」というセリフも染みるものがある。2023年3月に行われたWBCの期間中に、不振の選手たちについて聞かれたダルビッシュ有選手が、「それ(好不調があること)が野球なので。そんなことを気にしていても仕方ないですし、人生の方が大事ですから。野球ぐらいで落ち込む必要はない」という言葉にもどこか通じるものがあるような(スポーツ総合サイト「THE DIGEST」の2023年3月28日の記事「『人生の方が大事』絶不調でも際立ったダルビッシュ有にこそMVPを。“オープンマインド”で変えた代表の在り方」より)。
 古代ギリシャの数学者ピタゴラスは音程や音階の理論を発明し、ドイツの数学者で博物学者のアタナシウス・キルヒャーは順列と組み合わせの関係から音階のパターンを導き出そうとした(西原稔氏と安生健氏の共著『数字と科学から読む音楽』より)。以前にふと音楽は数学だ、と感じた後で、紀元前500年代に数学者が音階の理論を発明したのだから当たり前、とわかって妙に納得したことを思い出した。四分音符、八分音符、半拍、八小節などなど、楽譜を読むには膨大な数字を瞬時に判断し緻密に組み合わせて理解し、演奏として動作につなげ体を動かして表現する。数学への憧れと音楽への愛着が文系の筆者は強くあるので、こうした作品にはしみじみと魅力を感じる。
 前述の「cine21」の記事にて、ドンフン監督は影響を受けた作品のひとつに1997年の映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』をあげている。個人的には数学と少年の物語として、2006年の日本映画『博士の愛した数式』、インド人の天才数学者ラマヌジャンの実話をもとにした2016年のイギリス映画『奇蹟がくれた数式』、2019年のインド映画『スーパー30 アーナンド先生の教室』などを思い出す。実際の数学者たちの生きる世界は、熾烈な競争のなかで誰がいつどのように公式を解くのかが重視されていると報道などで知っているものの、数学に魅入られた人々のひたむきさを描く映画には毎回胸を打たれる。最後に、ドンフン監督がこの作品にこめたメッセージをお伝えする。「(この作品が)諦めたくなった人の背中を押せる映画になることを願う」

参考:「cine21」、「interview365」、「THE DIGEST

作品データ

公開 2023年4月28日よりシネマート新宿ほかにて全国順次公開
制作年/制作国 2022年 韓国
上映時間 1:57
配給 クロックワークス
原題 이상한나라의수학자
英題 IN OUR PRIME
監督 パク・ドンフン
脚本 イ・ヨンジェ
出演 チェ・ミンシク
キム・ドンフィ
パク・ビョンウン
パク・ヘジュン
チョ・ユンソ
:あつた美希
ライター:あつた美希/Miki Atsuta フリーライター、アロマコーディネーター、クレイセラピスト インストラクター/インタビュー記事、映画コメント、カルチャー全般のレビューなどを執筆。1996年から女性誌を中心に活動し、これまでに取材した人数は600人以上。近年は2015〜2018年に『25ans』にてカルチャーページを、2015〜2019年にフレグランスジャーナル社『アロマトピア』にて“シネマ・アロマ”を、2016〜2018年にプレジデント社『プレジデントウーマン』にてカルチャーページ「大人のスキマ時間」を連載。2018年よりハースト婦人画報社の季刊誌『リシェス』の“LIFESTYLE - NEWS”にてカルチャーを連載中。
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