シンプル・アクシデント/偶然

世界三大映画祭のすべてで最高賞を受賞
ジャファル・パナヒ監督が復讐を題材に描く
社会派サスペンス・スリラー

  • 2026/05/08
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シンプル・アクシデント/偶然©LesFilmsPelleas

復讐か、赦しか。第78回カンヌ国際映画祭にてパルムドール(最高賞)を受賞した注目作。監督・脚本はイランを代表する監督のひとりであり、『チャドルと生きる』(2000)でヴェネチア国際映画祭金獅子賞、『人生タクシー』(2015)でベルリン国際映画祭金熊賞、そして本作のパルムドール受賞により世界三大映画祭のすべてで最高賞を受賞した、史上4人目となったジャファル・パナヒが手がける。出演は、ローカルテレビ局に勤務しタクシードライバーでもある、『熊は、いない』のワヒド・モバシェリ、空手の審判員であるマルヤム・アフシャリ、舞台女優のハディス・パクバテン、パナヒ監督の甥である『人生タクシー』のマジッド・パナヒ、大工であり以前に演劇を学んでいたモハマッド・アリ・エリヤスメール、俳優・監督として活動するジョルジェス・ハシェムザデー、そしてパナヒ監督が、(この映画で)唯一のプロの俳優であり、体制外の映画にのみ出演し(政府の)検閲を通った作品への参加を拒否している、というエブラヒム・アジジほか。ある夜、ワヒドが働く工房に、家族連れの男が車の修理を求めてやってくる。ワヒドはその男が、以前に不当に逮捕・投獄された時に、自分に残忍な拷問をした看守だと確信。その男に復讐しようとするが……。この人物は本当に復讐を果たすべき相手なのか? そうであるならばどうやって復讐するのか? 同様に不当逮捕された人々の間でも意見が割れ、事態は混沌としてゆく。復讐殺人というシリアスな題材でありながら、人間の愚かさや滑稽さ、いざという時の人情、ギリギリの状況における精神状態、判断や混乱をユーモアとして表現。イランを舞台に市井の人々の心情を描き続けるパナヒ監督による、社会派のサスペンス・スリラーである。

ある夜、ワヒドが働く工房に家族連れの男が車の修理を求めてやってくる。その男が義足を引きずる奇妙な音を耳にした瞬間、ワヒドは凍りついた。かつて政治犯として不当に逮捕・投獄されたワヒドは、“義足”というあだ名の看守エグバルから残忍な拷問を受けて尊厳を踏みにじられ、人生の大切なものすべてを奪われた。この男が看守エグバルだと確信したワヒドは、翌日、強引に男を拉致して荒野に生き埋めにしようとする。しかし収監中は目隠しをされ、エグバルの顔を見たことがないワヒドは、本当にこの男だろうか、と迷いが生じる。そこでひとまず義足の男をバンの荷台の木箱に押し込み、ワヒドは同じトラウマを抱える元囚人たちのもとを訪ねるが、誰も義足の男が看守エグバル本人だと証明できない。5人で話してもどうするべきか決まらずに混沌とする中、事態は思いがけない方向へと迷走してゆく。

ワヒド・モバシェリ,ほか

イランを代表する映画作家ジャファル・パナヒによる、復讐を題材とする社会派スリラー。といっても主人公はごく平凡な気のいい中年で、復讐! と最初は突っ走るも、衝動的で計画性がなく、この男が本当に憎きエグバル本人であるかどうかもわからず。5人で頭を突き合わせても意見が割れるわ揉めるわで、ぐだぐだになる、というあたり、リアリティとユーモアがある。個人的に日本で2026年3月に公開されたパク・チャヌク監督の『しあわせな選択』に通じる人間味とユーモアを感じた。
 パナヒ監督はイラン政府から弾圧され複数回の逮捕・投獄により、映画監督・脚本執筆・報道機関へのインタビュー・国外退去(海外への渡航)の禁止を20年間命じられるも、その間も映画を制作し続けてきた不屈の映画作家として尊敬されている人物だ。この映画が2度目の収監において刑務所で出会った人々との交流から着想を得たことについて、監督は語る。「映画作りを始めた時から、私は社会で起こっていることや自分を取りまく環境を描いてきた。だから、7か月監獄という特異な環境で過ごしたことは、当然私の映画に反映される。最初に逮捕された2010年の尋問では、『なぜこのような映画を作るのか?』と訊かれた。私は、自分の映画はみな経験に基づくものだと答えた。形はさまざまだが、その時私が経験していたことが必ず映画に表れる。『人生タクシー』がまさにそれだ。とりわけ弁護士ナスリーン・ソトゥーデとの会話だね。だが、2度目の収監経験はさらに深い爪痕を残した。釈放された時、私は塀の中で出会った人たちのために映画を作らずにはいられないと感じた。私は彼らのために撮る責を負っている。個人的な経験から話していても、イラン社会で広く起こっていることとつながっている。特に2022年秋に始まった『女性、命、自由』革命だね。この間に多くの変化があった」

マルヤム・アフシャリ,モハマッド・アリ・エリヤスメール,マジッド・パナヒ,ハディス・パクバテン,ワヒド・モバシェリ

工房で働くお人好しのワヒド役はワヒド・モバシェリが、ワヒドが出会った看守エグバル疑惑のある義足の男役はエブラヒム・アジジが、不当に逮捕・収監された経験をもつ女性カメラマンのシヴァ役はマルヤム・アフシャリが、シヴァの元恋人で気性の荒いハミド役はモハマッド・アリ・エリヤスメールが、シヴァの友人で明日に結婚式を控える花嫁ゴリことゴルロク役はハディス・パクバテンが、ゴリの婚約者で心優しい花婿アリ役はマジッド・パナヒが、書店を営むワヒドの恩人サラル役はジョルジェス・ハシェムザデーが、それぞれに演じている。
 イランでは公に体制を批判する映画の場合、キャストやクルーの名前が伏せられるが、この映画では公開。理由は「全員が名前を出すことを望んだ」ためであり、キャスティングの際は監督が、「ひとりひとりを家に招いて脚本を渡し、参加すればリスクがあるがこの役を受けたいか」と本人たちの意思を確認し、信頼関係を確立して合意に基づき撮影が行われたという。登場人物たちについて、監督は語る。「人物は架空だが、彼らの語るストーリーは実在の囚人が体験した事実に基づいている。登場人物や、その反応の多様性も事実だ。復讐の念に駆られて凶暴になる者もいる。一歩引き、長い目で見て模索する者もいる。政治に強い関心を持つ者や、持つようになる者もいれば、無関心なのにたまたま捕まる者もいる。主人公ワヒドがそうだ。彼はただ賃金を要求しただけの労働者だった。政権はこうした人々を区別しない。他の登場人物はそれぞれ、緩かったり、緊密だったりとさまざまな数多くの反体制派組織を象徴している」

エブラヒム・アジジ

ジャファル・パナヒ監督はどのような人物なのか。1960年、イランのミアネ生まれ。首都テヘランにある国立メディア大学で映画の製作や演出を学び、短編映画、ドキュメンタリー、テレビ映画を数本監督した後、アッバス・キアロスタミの『オリーブの林をぬけて』(1994)の助手を務めた。1995年、キアロスタミとの共同脚本による初の長編映画『白い風船』を監督。第48回カンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞。イラン国内で上映されたパナヒ監督の映画は『白い風船』のみ。『チャドルと生きる』(2000)でヴェネチア国際映画祭金獅子賞を、『人生タクシー』(2015)でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞するなか、ほかの映画は上映されていない。『シンプル・アクシデント/偶然』が第98回 アカデミー賞にて脚本賞・国際長編映画賞にノミネートされた際は、フランス代表として出品されている。
 パナヒ監督は2009年7月、マフムード・アフマディネジャド大統領の再選をめぐる抗議活動で死亡したデモ参加者の追悼式に出席した後に、初めて逮捕。2010年3月に妻、娘、15人の友人と共に2度目の逮捕(刑務所で86日間拘束された後に保釈)。2022年7月に再び逮捕され、ハンガーストライキを経て2023年2月に保釈。そしてパナヒ監督は2025年12月、アメリカでこの映画のプロモーション中に、イラン政府より懲役1年と2年間の渡航禁止、そして政治団体・社会団体への参加禁止を言い渡された。監督の弁護士はSNSで、この判決に対して必要な法的措置を取り、控訴すると発表した。パナヒ監督は2025〜2026年にイスラム共和国軍により政府への抗議活動に参加した人々が虐殺されたことに対し、インターネットの遮断は抑圧の手段であり、イスラム共和国軍による大量殺戮を隠蔽するためであると示唆。2026年1月、監督は自身のインスタグラムアカウントに184人の署名を集めた訴えを投稿し、「我々は表現の自由の権利を全力で擁護し、抗議する人々への弾圧と殺害を非難し、イラン国民と共に立ち上がる」と述べた。

限界をはるかに越える不当な暴力にさらされた時、人はどこまで自分を保てるのだろう。正しさとは何なのか。もし彼らの立場だったら、私たちは何を選ぶだろうか。
 『シンプル・アクシデント/偶然』の撮影は、そもそも許可が下りないことから公式な許可を申請せず、これまでと同じく隠密の手法で進められた。クランクアップ直前に私服警官が現れ、全フッテージを要求されたが監督は拒否。クルーを逮捕して製作をやめさせると脅され圧力をかけ続けられるも屈せず、警官の方が根負けして諦めたという。自国に帰国すると逮捕の可能性があるなど、こうした厳しい状況を知ると、「監督は亡命を考えないのだろうか?」という問いが浮かぶ。いろいろな場所でそうした質問をされるたび、パナヒ監督は「なぜ国民が去らなければならないのか? 私たちには自分たちの国で暮らす権利がある。去らなければならないのは政権の方だ」ときっぱりと言う。また「私は他の場所では生きられない。イラン同胞の多くは自ら、あるいは強制されて国外へ移住した。でも私にはできない。そんな勇気はない! イランの外の暮らしには馴染めない」とも。2026年1月9日付の「Variety」の記事「Jafar Panahi on Mounting Protests in Iran and Wanting to Return Despite Upcoming Trial: ‘It Doesn’t Matter What Will Happen to Me … I Have to Go Back’(イランで高まる抗議活動と、裁判を控えているにもかかわらず帰国を望むジャファル・パナヒ氏:「私に何が起ころうと関係ない…私は戻らなければならない」)」でも、監督はこのように語った。「こうした動向(逮捕の可能性など)は私の決断に全く影響を与えない。カンヌでのインタビューでも述べたように、この映画の結果として私に何が起ころうとも、私はイランに帰らなければならない。そして実際に(カンヌの後)イランに戻った。私は自分の国にいなければならない人間だ。そこで呼吸し、そこで働く必要がある。彼らが懲役刑を執行しようとするなら、すればいい。イランに戻るという私の決意は、何があっても変わらない」
 最後に、2026年1月14日付のジャファル・パナヒ監督本人のインスタグラムより、2025年12月にアメリカの映画批評家協会にて『シンプル・アクシデント/偶然』が最優秀監督賞を受賞した際のコメントをお伝えする。
 「映画批評家協会から本賞を受賞できたことを誇りに思い、皆さんに通常どおり感謝を伝えたいところですが、残念ながら言葉を容易に口にすることができません。なぜなら、今この瞬間、イランでは政府がデモ参加者に向けて発砲し、野蛮な虐殺が白昼のもと、路上で続いているからです。
 映画とは、観客を笑わせ、泣かせる役割があるのかもしれない。恐怖を与え、安心を与え、恋をさせ、恋に傷つかせ、学ばせ、考えさせるものかもしれない。しかし今日、本物の現場は映画のスクリーンにはない。それはイランの路上で起きている。
 イスラム共和国は、崩壊を逃れるために血の海を作り出している。
 遺体が幾重にも積み重なり、生き残った者たちは、死体の山の中で愛する人の痕跡を探し続けている。これはもはや比喩ではない。物語ではない。映画でもない。これは毎日、毎夜、銃弾によって書き記されている現実です。
 私はこの賞を契機に、世界中の映画人・芸術家の皆さんに訴えることが自分の責務だと考えている。沈黙してはいけない。
 あなたがもつあらゆる声を、すべての発信の場を、使ってください。あなたの国の政府に、この人道的惨事から目を背けないよう求めてください。
 血が忘却の闇の中で乾いてしまわないようにしてください。
 今日、映画は無力な人々の側に立つことができる。だから、立ち上がってください」

参考:「Variety」、「ジャファル・パナヒ監督のインスタグラム

作品データ

公開 2026年5月8日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国公開
制作年/制作国 2025年 フランス・イラン・ルクセンブルグ
上映時間 1:43
配給 セテラ・インターナショナル
原題 UN SIMPLE ACCIDENT
英題 IT WAS JUST AN ACCIDENT
監督・脚本 ジャファル・パナヒ
出演 ワヒド・モバシェリ
マルヤム・アフシャリ
エブラヒム・アジジ
ハディス・パクバテン
マジッド・パナヒ
モハマッド・アリ・エリヤスメール
:あつた美希
ライター:あつた美希/Miki Atsuta フリーライター、アロマコーディネーター、クレイセラピスト インストラクター/インタビュー記事、映画コメント、カルチャー全般のレビューなどを執筆。1996年から女性誌を中心に活動し、これまでに取材した人数は600人以上。近年は2015〜2018年に『25ans』にてカルチャーページを、2015〜2019年にフレグランスジャーナル社『アロマトピア』にて“シネマ・アロマ”を、2016〜2018年にプレジデント社『プレジデントウーマン』にてカルチャーページ「大人のスキマ時間」を連載。2018年よりハースト婦人画報社の季刊誌『リシェス』の“LIFESTYLE - NEWS”にてカルチャーを連載中。
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